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5巻以内で完結する傑作漫画99冊+α その二

カテゴリー │漫画ホンの話

その一の続きです。


  1. 『石の花(上)』坂口尚
  2. 『石の花(下)』坂口尚
  3. 『石の花(中)』坂口尚
    第二次世界大戦中、ドイツのナチスによって制圧されたユーゴスラビアを舞台とした物語。
    そんな時代のそんな世界の話なんて知識が無いから読んでもつまらないよ。と思う人はまずは騙されたと思って読んでみて欲しい。
    坂口尚はそんな時代のそんな世界をあるがままの世界を描ききっている。だからこの漫画を読むのに予備知識など必用はない。
    あるがままといっても作中では正義と悪について等、肯定するべきことは肯定しているし、否定するべきことは否定している。しかしそれはあくまで登場人物にそうさせているのであって、作者が表に出てそう言っているわけではない。
    作者の主義主張は確かにそこにあるのだけれども、それは物語の中では目に見える形では現れていない。ナチスによって占領された世界、の善悪の二元論で語られそうな物語を単純な二元論でもって描いているのではないのだ。ごく普通の人々が歴史の大きなうねりの中に巻き込まれていった時、後世の人達から見れば、何故このような愚かなことをしたのだろうと思われることであっても、小さな積み重ねがそのようなことに結びついていき、気がつけばもう抜け出せないところまで来てしまっていくのである。
    オリジナルは全3巻だったが後に大幅加筆された5巻構成の本が出た。さらにその後、全3巻にまとめられた豪華版がでている。



  4. 『鼻紙写楽』一ノ関圭
    江戸の風俗を描いた漫画では杉浦日向子の作品が有名だが、一ノ関圭も捨てがたい。杉浦日向子の独特な世界の絵とは異なり、写実的な絵でもって描かれる一ノ関圭の江戸の風景は杉浦日向子とは違った世界を見せてくれる……のだが、一ノ関圭はもともと寡作な人で、発表される作品そのものが少ない。ただでさえ少ないのに1980年代の初め頃からさらに発表の回数が減ってしまい、もう漫画を描くことはやめてしまったのだろうかと思い始めていたのだが、2003年に突如復活し、初の長編を雑誌に連載するようになった。しかし今度は不運なことに掲載誌が休刊してしまい、連載を引き取る他の雑誌もなかったようで、そのまま中断してしまった。
    が、奇跡は起こるもので、描きおろしを含めた形で一冊の本にまとまったのがこの『鼻紙写楽』だ。
    歌舞伎の世界を中心として、上方、現在の大阪から江戸へ出てきた無名の絵師、伊三次(後の東洲斎写楽)が浮世絵師として活躍する物語と五代目市川団十郞とその息子との確執の物語とが複雑に交じり合っていく。惜しむらくはどう見ても未完で、というのも写楽と名乗るまで話が進んでいないうえに物語としても中途半端なところで途切れている。かといってタイトルにもナンバリングがされてはいないので、今の時点ではこの後の物語は読者が想像するしかない。



  5. 『蝶のみちゆき』高浜寛
    一ノ関圭の『鼻紙写楽』に引き続き、江戸時代の話をもう一冊。高浜寛は日本よりも海外で高く評価されている人である。
    こちらは長崎を舞台とし、その町にある遊廓で遊女として生きる一人の女性を中心とした物語だ。
    遊廓であるが故に夜の場面や、室内の場面が多いのだが、光の使い方がうまい。いや使い方というよりも、蝋燭の灯に照らされる人の姿が美しいのである。もちろん主人公である遊女がその町で一番の美人であるという設定なので、美しく描いているという部分もあるけれども、それを抜きにしても当時の光はこんな光だったのだろうと感じさせるような描き方だ。
    そんな美しい光のなかで描かれる物語は、遊女に身を落としてまでも愛する人を救おうとする一人の女性の、悲しく切ない物語。それはまさしくこの本のタイトルにある、儚い蝶のようでもある。
    彼女の物語の結末は決してハッピーエンドではない。しかし、彼女の思いの大きさと重さを知った後では、決してハッピーエンドではないこの結末であっても、それもまた良いのではないかと思わせられる。



  6. 『斬り介とジョニー四百九十九人斬り』榎本俊二
    榎本俊二の作品を選ぶとすれば『ゴールデンラッキー』『えの素』のどちらかだと思う。どちらも完全版として全三巻なので冊数としても条件を満たしている……しかし、さすがにこれを面白いから読めと薦めるのも気が引けるし、人を選ぶ漫画だ。でも『えの素 トリビュート』という、寺田克也やメビウス、萩尾望都に、めったに漫画を描かない鶴田謙二までもが参加した本が作られるくらいに榎本俊二の作品は異彩を放っている。そんな榎本俊二の凄さを知ってもらうのに一番いいのが『斬り介とジョニー四百九十九人斬り』だろう。
    悪党に連れ去られた村娘の奪還を依頼された斬り介とジョニーの二人の剣士が、タイトルに偽ることなくひたすら斬って斬って斬り殺す話だ。ストーリーなど殆ど無く、ただひたすら二人は目の前に現れた敵を斬る。そこにあるのは物語を追いかけることの快楽ではなくスピードとリズムに乗ってページを読み進めることの快楽なのだ。紙面に描かれたリズムを楽しむ漫画でもある。



  7. 『超動力蒙古大襲来』駕籠真太郎
    駕籠真太郎というとこの作品よりは『フラクション』の方がいいかもしれないけれど、生憎と僕は『フラクション』を読んでいない。
    というのも基本できに駕籠真太郎が苦手なのだ。グロテスクで猟奇的でスカトロでそしてホラーとなるといくら評価が高くても敬遠したくなってしまう。唯一の救いは作者が描く対象を突き放していて乾いた絵という点だろうか。
    しかし『超動力蒙古大襲来』は表紙の絵からわかるように、過去の作品と比べて非常にマイルドで、一般受けしやすい絵になっている。
    チンギス・ハンがモンゴル帝国を築き上げることができたのは「モンゴル馬」がいたからだった。という設定から始まる物語はありえたかもしれないもう一つの歴史物語であるけれども、実際に読んでみると思わずのけぞってしまう展開をする。そもそもモンゴル馬というのが巨大な人間の手首から先のものなのだ。遺跡で発見された巨人の手首の部分を切り離した所、その手首は五本の指を起用に操りまるで馬のように走り回る。なおかつ切り落とされた巨人の方からは手首が再び生え始めだしたのだ。つまりこの手首は増やすことが出来る。これを利用しない手はないと思いついたのがチンギス・ハンで、彼はこの謎の生き物をモンゴル馬と名付け、この馬を駆って世界に進出したのである。
    物語はこのモンゴル馬を動力源として様々な用途に用い、そしてそれを技術の中心として発展していった世界を描き出す。本来の歴史では蒸気機関が発明され産業革命が起こるのだが、この物語では蒸気機関はモンゴル馬による動力に駆逐され、モンゴル馬による動力元によって産業革命が起こり、やがて世界大戦へと向かっていく。といってもそこに何らかの風刺的な意図があるのかといえばそういうものを見出すことはできるけれども、あまり深く考えずに感じたものをそのまま受け止めるほうが楽しい。



  8. 『フンティーとレポンちゃん』いがらしみきお
    いがらしみきおが、かつては下品な漫画で一世を風靡していたことを覚えいる人は少なくなってしまったのではなかろうか。特に、人気絶頂のときに休筆宣言をして二年間休筆したことを知っている人も少ないだろう。そしていつのまにか、休筆前の活動期間よりも復帰後の活動期間のほうが長い月日となり作品数も増えてしまった。かつてはギャグ漫画家であったけれども、最近では『ぼのぼの』に代表されるほのぼの系と、ホラー系の漫画を描く漫画家として知れ渡っている。そんな中で一作を選ぶというのは無理があるので二作品を選んでみた。『ぼのぼの』は四十巻近く出ているのでいまさらという人向けに『フンティーとレポンちゃん』。これは一巻で完結していて、いがらしみきおのある一面が前面に出た作品だ。主人公を除けば総勢26人ものキャラクターが登場するけれども、全員1話限りの登場という見事なまでのキャラクターの使い捨てっぷりも素晴らしい。そもそも、フンティーは子犬、レポンちゃんは人形なのだけれども、レポンちゃんのすぐ隣にはレポンちゃんを10分の1にしたくらいの小さなレポンちゃんがいて、さらにその隣には一回り小さなレポンちゃんがいる。3人でというか3体でレポンちゃんというシュールさも素晴らしい。しかし、その3体で一人のキャラクターという設定がなにか重要な役割をもっているのかといれば、ほとんど何ももっていない。意味を持たせようとすれば持たせることができるのにそんな意味など無意味だといわんばかりの空っぽさは、純粋さの現れでもあるのかもしれない。



  9. 『夢みごこち』フジモトマサル
    荘子の話の中に「胡蝶の夢」という話がある。
    「胡蝶の夢」に対して文句を言う人間はいないだろうけれども、「それまでの出来事はじつはすべて夢だった」という形でむりやり物語を終わらせてしまう、いわゆる「夢オチ」には文句を言う人間はいる。
    夏目漱石の「夢十夜」は全て夢の話なのだけれども、書き出しを「こんな夢を見た。」とすることであらかじめことわりを入れている。もっとも、ことわりを入れなくても個々の話はそれぞれしっかりとまとまっているので「夢オチ」にはならないけれども、この『夢みごこち』は、大多数の話がすべて、語り手が目覚めるところで終わり、今までの出来事は全て夢だったという形で終わる。最終話を除けば全て夢の中の話である。
    広義の意味での「夢オチ」ではあるが、個々の話は夢から覚める前に何らかのオチがつくので、夏目漱石の「夢十夜」と同様、「夢オチ」であっても不満は全然ない。
    最初の話は、語り手が目が覚めたところで終わる、そして次の話はその語り手が目が覚めたところから始まるのである。で、次の話も語り手が目が覚めたところで終わり、その次の話が始まる。
    語り手は延々と夢から目覚め続け、というか醒めても醒めても夢だったという、悪夢に近い情況を繰り返し続ける。最後の話がどのような終わり方をするのかに関しては気になった人はこの漫画を読んで欲しい。
    語り手が見る夢は、少し不思議で少し怖くて、少し面白い。そして、そんな夢を延々と描き続けたこの漫画はとても面白いのだ。



  10. 『のぼるくんたち(1)』いがらしみきお
  11. 『のぼるくんたち(2)』いがらしみきお
    こちらはギャグ漫画家としてのいがらしみきおが前面に出た作品。
    休筆前よりはマイルドになっているけれども、老人ホームを舞台にブラックで下品で、それでいて少しのペーソスがある。主人公のぼるくんは認知症の老人。彼は朝、目が覚めたときにはほとんど全ての記憶を失っており0歳児と同じ行動しか取ることができない。時間が経つににつれて徐々に記憶を取り戻し、少年期、青年期、そして壮年時代の記憶と知識を取り戻していく、しかし一日の終わりまでの間に彼がすべての記憶を取り戻すことは無い。彼が現在の年齢まで到達するのには一日の時間が足りなさすぎるのである。しかし、記憶を取り戻す速度が早まれば一日の間に現在の年齢まで到達することができるかもしれない。一日の間に誕生から成長、そして老いという人の一生を体験し、そしてそれを何度も何度も繰り返す。
    のぼるくんの基本設定だけ抜き出してみると、この話のどこがギャグなのか、と思うかもしれない。しかし、これはギャグ漫画なのだ。
    いがらしみきおはこの作品の前に、『3歳児くん』全2巻という3歳の子供を主役にしたほのぼの漫画を描いた。そしてその後に描いた作品が老人たちを主人公としたこの本。かたや純粋な幼児であり、片方は酸いも甘いも体験しきった幼児のような老人たち。どんなにキレイ事をならべても老人には悲しさがあり、今の日本の高齢化社会を予言したかのような作品である、というのはちょっと言い過ぎか。しかし、最終話、のぼるくんは本来の年齢にまで到達する。ほんの僅かな時間の間に自分のすべての人生を振り返り、それは死ぬ間際に体験すると云われている走馬灯のような人生の振り返りとして描かれるのだが、この物語ではその走馬灯のような人生の振り返りを新たな希望へと結びつけている。


  12. 『ラタキアの魔女』笠辺哲
    まず、冒頭の「ボーヤのクリスマス」を読んで打ちのめされた。
    主人公はサンタクロースをお手伝いする少年。そして物語はクリスマスが近づいて来たのでそろそろクリスマスプレゼントの準備をしなければいけないというところから始まる。笠辺哲の面白さはサンタクロースとクリスマスに対する考察の部分が論理的なところだ。まず、サンタクロース自身は一人であるということ。次にサンタクロースは鍵のかかった部屋に入ることができ、空飛ぶトナカイに繋がれたソリに乗ることができる。しかしそれ以外は特殊な能力を持っていないという設定になっている。そこで問題になるのは、三つの能力以外は普通の人間と変わりのないサンタクロースが、一夜のうちに世界中の子どもたちにプレゼントを配り終えることができるのかということなのだが、作者が用意した解答がこれまたふるっている。たしかにこれだったら配り終えることができそうなのだ。気になる人は是非読んでみてもらいたい。
    続く「トラベルライター」にも笑ってしまったのだが、その後に来る「TUDM」では人間とロボットとの友情がしんみりとさせられる一方で、自我をもったロボットの本能のようなものがさりげなく終盤に物語として浮かび上がり、そのSF的な要素に不意打ちを食らってしまう。
    表題作は不老不死と噂される女性と生活を共にすることになった少年の物語である。彼女は噂通りの不老不死で、少年だけが年をとっていく。このような設定の場合、いつまでも若いままの彼女と一方的に年をとっていく主人公の間の愛情の物語が描かれるのが通常かもしれないが、いや、それだけでも面白い物語になるのだが、不老不死の意外な真実の姿が終盤で明かされる。一捻りしてあるのである。


  13. 『バベルの図書館』つばな
    この本の紹介文にある「ちょっとダークなボーイ・ミーツ・ガールストーリー」という文章は気になる文章だ。
    作者のあとがきが付いていて、そのあとがきを読むことで始めてこの物語で作者がやりたかった事がわかる、というか明確になるというのは僕自身の読解力のなさのせいかもしれないが、あとがきを読むことで腑に落ちたというものまた事実だ。
    多分それは、選ばれなかったもう一つの物語のほうに焦点を当てるという中で、本来ならばメインとなるハッピーエンドの物語に対して、ハッピーエンドになるための選択肢を選択しなかったもう一つの物語、それが今回の物語となるのだけれども、その物語の異様さというか、ちょっとどころではないダークな部分が強烈すぎると同時に、それ故にこの物語に対しての何らかの一発逆転的などんでん返しの結末があるんじゃないかと思わせながらもそんなものは描かれなかったという物足りなさを、このあとがきを読むまで引きずっていたせいでもある。

    選ばれないという形で始めて救いのある物語になるというのは残酷な物語でもある。



  14. 『洞窟ゲーム』まどの一哉
    漫画家としてデビューして33年目にして初めて単行本が出たという漫画家。そしてその単行本がこの本である。
    というところから想像がつくように、おそろしくマイナーな漫画だ。しかしマイナーだから単行本が出なかったというわけではないだろう。
    ギャグにしかなりようがない設定あるいはシチュエーションを使いながらも、読み手を一切笑わせない異様な世界がそこにある。シュールでありながら狂気に満ちていると言い換えてもいいだろう。
    楳図かずおが、恐怖と笑いが表裏一体であることを『まことちゃん』で証明したけれども、楳図かずおが「恐怖」の絵で「笑い」を描いたとすると、まどの一哉は「笑い」の絵で「恐怖」を描いたといっても構わないかもしれない。
    笑えるはずなのに笑うことが出来ない。そんな雰囲気の異様な漫画なのだ。
    まどの一哉の漫画を読むという行為は作者の描く異様な世界をどこまで受け入れることが出来るかどうかという根競べのようなものでもある。


  15. 『ブラック・ホール』チャールズ・バーンズ
    オルタナティヴ・コミックというものがある。
    といってもこの言葉、この漫画で初めて知ったのだが、アメリカにおいて、それまで僕はアメリカの漫画というのはひとくくりにアメコミと言ってしまっていたのだが、そうでもなくって、スーパーマンやバットマンが登場する漫画とは別に、オルタナティヴ・コミックと呼ばれるジャンルの漫画が存在している。
    市場規模でいえばアメコミがメジャーであってオルタナティヴ・コミックはマイナーな感じになると思うのだが、そう考えると、このオルタナティヴ・コミックは日本でいえば『ガロ』系の漫画になるのかもしれない。
    性交渉によって広まる謎の奇病。それはティーンエイジャーだけが発症する。直接死にはつながらないものの、その奇病は感染者の肉体を変貌させる。ある者はイボのようなものができ、ある者は尻尾が生え、ある者は喉にもう一つの口ができる。どんな形で発症するのかは個人個人で異なるのだ。
    そのような事態の中、物語はとある高校の一部の生徒の間だけの話に終始する。これだけの事態になっていながらも、物語の中では国家レベルでの対応とか、社会の様相などはまったく描かれない。奇病そのものが問題なのではなく、あくまでそのような事態の中での個人レベルの問題、それは、誰それのことが好きとか誰それのことが嫌いという恋愛の話だけしか描かれない。しかも登場人物たちはみな、恋愛に奥手な人物ばかりなので、うじうじと恋愛問題のことで悩んでいるばかりなのだ。まあ、病気のこともちょっとは悩むのだけれども。


  16. 『イエローマン 杉浦茂シュールへんてこりん傑作選』杉浦茂
    なんでここで杉浦茂なんだとは言わないで欲しい。
    たしかに今となってはキャラクターの絵がらとか言葉遣いとか古臭さというか幼稚性を感じるかもしれない。
    でも、得体のしれない生き物や乗り物といった部分のデザインに目を向けてみるとどうだろう。単純な線なのでうまいとは感じないだろうけれども、なんでこんなデザインをすることができるのだろうかと思うはずだ。そう思いながら、幼稚性を感じる言葉遣いに目を向けてみると、どうしたらこんな言葉遣いをすることができるのだろうかと疑問に思うはずだ。
    杉浦茂の世界というのはつまり、突き詰めていくと、どうしたらこんな発想ができるのだろうかという世界なのだ。もちろん、こんな発想ができたからといって実生活で役に立つことなど全くない。でも、役に立つのが漫画というわけではない。へんてこりんで、バカバカしくって、そして不思議な漫画だ。
    この本には杉浦茂が88歳の時に描いた遺作も収録されている。さすがに線は弱々しく、ペン入れしていない線は途中で途切れていたり、全盛期の絵とは比べようもなくなっているが、タイトルに「2901年宇宙の旅」と名付け、そして弱々しい線しか描けないようになっても、まだ描こうとしたのは執念なのかそれとも描くことそのものが杉浦茂にとって生きるということだったのだろうかと思わせる。