『おやすみプンプン』を読むのが辛くなってきた。しかし、たぶんそれでもこの漫画が完結するまで読み続けるのだろうと思う。
そんなおり、浅野いにおの新刊『うみべの女の子』が出た。ネットでの評判を調べてみるとそれほど悪くはないので読んでみようと思ったのだが、それとは別に浅野いにおと、よしもとよしともとの類似性について言及しているブログがいくつかあって驚いた。
いままで気が付かなかったが、言われてみれば類似点はある。
僕が初めて読んだ浅野いにおの漫画は『ひかりのくに』だ。当時、この漫画を読んでどう思ったのかはもう覚えてはいない。でも幸いなことにこのブログで感想を書いている。どう思ったのか、少しは思い出すことはできる。
で、当時の感想を調べてみると、なんということだろうか、よしもとよしともに似た感じの漫画だと書いてあった。
時折、昔の自分の方が頭が良かったんじゃないかと思うことがある。
しかし、類似性を気にしなくなったのは、よしもとよしともの新刊が出なくなって久しいせいもたぶんにあるんじゃないだろうか。
そう自分に言い聞かせながらも何となく不安になってきたので、よしもとよしともの漫画を読み返そうとしたが、生憎すぐに読み返すことができる情況にはない。そこで古書を探してみると安い値段で買うことがでたので、勢い余って何冊か買ってしまった。
読み返してみると、よしもとよしとものもっている軽さというかスチャラカさの部分が好きだったことを思い出した。「レッツゴー武芸帳」にしろ、僕が一番好きな「東京防衛軍」にしろ、軽さと重さと、いい加減さと真面目さが心地よいバランスで混ざっている。
むろん、「青い車」や「すきすきマゾ先生」のような話も好きだが、そこには描かれない背景として、よしもとよしともにはスチャラカさが存在しているのだという安心感がある故に、僕はよしもとよしともの漫画が好きなのだ。
よしもとよしとものスチャラカさというものは今のところ浅野いにおにはない。しかし、だから駄目だというわけではない。よしもとよしともが「東京防衛軍」のような漫画をいつかまた描いてくれたらいいなとは思うが、浅野いにおが「東京防衛軍」のような漫画を描いてくれたらいいなとは思わない。単に好みの問題だ。浅野いにおの絵の密度も好きだが、よしもとよしともの絵のスキマも好きだ。
それはそうとして、よしもとよしともの漫画の中で、岡崎京子のことが少しだけ書かれていた。そうか、岡崎京子とも繋がりがあったのかと思ったが、僕は岡崎京子の漫画をあまり好きになれなかったので、ほとんど読んでいない。
よしもとよしともの漫画を読み直してみて、今だったら岡崎京子の漫画も読むことができるのではないかと思ったが、少し逡巡して止めた。
多分、読んで良さを理解することはできたとしても、岡崎京子の描く漫画と僕との間にある距離は縮まないだろう。あの当時、岡崎京子の描く漫画に興味がなかったということはそういうことなのだ。なまじ中途半端に理解するということは、岡崎京子の描く世界に入り込むことができないということを突きつけられるということだ。
『うみべの女の子』に話をもどそう。
よしもとよしともが描かなくなってしまった後を浅野いにおが引き継いでいる。浅野いにおだけが引き継いでいるというわけじゃないだろうけど、今のところ僕は浅野いにおしか知らない。僕が浅野いにおの漫画を読むのはよしもとよしともが描かなくなってしまったからなのだろう。
でも、いつのまにか僕は彼らが描いていた世代の年齢を遙かに通り越してしまった。
読みながら、そうだねと共感していた時代はとっくに通り越してしまっている。
でも通り越してしまっても、あの頃に感じ続けていた疑問に対する答えは出ないままだ。答えはどこにあるのだろうか。
どこかで僕は答えを見落としてしまっていたのかもしれない。
それを確かめるために、僕はこの先も浅野いにおの漫画を読むのだろう。