『脱北、逃避行』野口孝行

Takeman

2014年01月31日 20:32


  • 脱北、逃避行

  • 著: 野口 孝行

  • 販売元/出版社: 文藝春秋

  • 発売日: 2013/10/10

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ノンフィクションでありながらも、良質のエンターテインメントなフィクションといいてもいいほどのおもしろさを持つ本だった。
とこんなふうに書いてしまうとノンフィクションとフィクションを一緒にするなという意見もでてくるだろう。しかし一読して、というよりも冒頭の序章の部分を読んだ時点で冒険小説と同じ面白さを感じたのは否定しようがない。
この本の著者は脱サラしアルバイト生活をしながらもNGO団体の一員として脱北者支援活動行っている日本人の青年で、ここで描かれているのは北朝鮮から日本に脱北しようとする北朝鮮の人々と、それを手助けする脱北者支援者の話だ。
いくら北朝鮮がアジア大陸の一部であり、それ故に陸続きなので徒歩で他国に行くことができるからといっても、脱北するというのは簡単なことではなく、隣の国である中国の人々は脱北者に対して好意的でありながらも、国家としては脱北者を受け入れることはしていないせいでもある。公安警察に見つかれば北朝鮮に強制送還される。そして北朝鮮では、二度まではそれが許されるのだが、三度目は過酷な強制労働施設に入れられ、そして恐ろしく運が良くない限りはそこで死を迎えることとなる。もちろん二度目だからといって大丈夫なわけではない。
そんな過酷な話を読んでエンターテイメント的な面白さを感じてしまうのはやはり不謹慎なことだと思う。でも、僕は思うのだ。フィクションとノンフィクションとの違いは何なのだろうかと。

僕はこの自分のブログの中で、僕の妻が統合失調症に罹ってしまったときのことを闘病記として書き記したことがあった。
それを読んだある人が僕の最後の記事を読んで、「最終回(と呼びたくなる)は誤解を恐れずに言えば、小説のように秀逸だった。」と書いていたことがある。
僕はこの闘病記を事実だけを元にできるだけ客観的に書いたつもりだったのだが、ノンフィクションでありながらもフィクションと同等の意味合いとして受け止めてくれた人がいた。もちろん、そのことでその人を非難したり、読み方が間違っているというつもりは全くない。
それは僕自身が、不特定多数の人の目に止める文章として書いた以上、その文章がどのように受け止められたとしてもそれは自由だと思っているからでもあり、またどんなに客観的に書こうが、その文章になんらかの意図をもたせようとした時点で、その文章は程度の差はあれども恣意的な文章となり、読み手の自由な受け止め方を妨げてしまう。つまり、読み手の受け止め方を書き手が意図した方向へと導いてしまうのと同じだ。
そして僕はそれが悪いことだとは思っていない。文章は、書いた人間の持ち物であるからだ。だから小説のように感じたとしたらそれは僕がそのように意図した部分があったということだ。

話がそれてしまったが、この本の文章もそういった作為がある。序章がそれの一つで、中国の公安警察が主人公が泊まっているホテルにやってきて、そして脱北者であることがバレてしまう場面から始まるのだ。そして一章になると別の話に変わる。序章の続きはこの本の後半過ぎまで読み進めなければわからない。
さらに、著者の書く文章は極めて客観的で冷静でクレバーな文章だというせいもある。
文中で、著者が何故、脱北者を手助けする気持ちになったのか、そしてどんな思い出それを行っているのかが描かれるのだが、不思議なことにその著者の熱意が伝わってこない。文章が客観的すぎるせいでありそれは良質なエンターテインメント小説が持つものと同様のものでもある。実際に著者が行っていることは情熱と熱意がなければできないし続けることもできないものでありながら、著者の書く文章はきわめて冷静で客観的だ。
熱意がありすぎるが故に、文章を書く力が及ばず空回りしている文章を見かけることがある。ネットのブログでは特にそういった文章が多いのだが、この本は冷静であるが故にそういった熱意の空回りが無い。

だから読んでいて面白いのだ。

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